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2009年07月27日
さまざまな視点から社会をみつめ直すと・・・
こんにちは。前回に続き、伊藤恵子です。
前回は、自転車好きの私からみると、日本の道路は障害がたくさんあり非常に不自由で自転車乗りの視点から道路を造ったら、きっと今とは全く違った道路になるだろうと書きました。自転車が安全に走れる道路を造ることによって、自転車だけではなく、歩行者にとっても、車にとっても安全な道路の実現へとつながると思います。
道路に限らず、社会のさまざまな制度は、多数派もしくは発言力の強い人たちを基準に作られがちなので、社会の少数派やあまり自己主張をしない人たちは制度の狭間に置かれ、不自由を強いられていると思われます。でも、このような不自由を強いられている人たちの視点に立って、社会や制度をみつめ直すと、今まで気づかなかった矛盾や問題点がみえてきたり、新しい示唆が得られたりすることがあります。私が自閉症やアスペルガー症候群の人たちに関心があるのも、このためです。
知的障害を伴わない自閉症やアスペルガー症候群の子どもたちに対しては、発達障害者支援法が制定されるまでは、法的な支援は行われてきませんでした。文部科学省によると、小学校・中学校に在学する6.3%の児童生徒が、発達障害児(自閉症やアスペルガー症候群のほか、学習障害や注意欠陥・多動性障害の子どもなどが含まれます)であると報告されており、かれらはこの法律が制定されるまで、適切な教育的支援を十分受けることができないまま、通常の保育や普通学級での教育を受けていました。
近年の研究から、自閉症の発達は、通常とは異なる異質な発達のひとつであるとの見解がとられるようになってきました。この異質さについて、杉山登志郎氏はある種の異文化であると述べています。ここでいう異文化とは、私たちの思考法や習慣、言語とは異なる文化のことを指します。異文化として自閉症の世界をみつめれば、その言語コミュニケーションの特異性は、それなりの必然性をもっています。たとえば、突然コマーシャルの台詞を言い出したり、同じ質問を繰り返したりする行動も、かれらの言語獲得の特異性の表れであったり、対人的なかかわりをかれらなりの独自の方法で求めている姿であったりすることが理解できます。
かれらの発達の特徴に応じた教育は、通常学級で行われている教育とはだいぶ異なるものと思われます。たとえば、義務教育で一般的に行われている授業は、1時限目が算数、2時限目が国語というように1時限ごとに異なる教科が実施されています。このような1時限ごとに教科が異なる時間割は、変化への対応が苦手な自閉症やアスペルガー症候群の人たちにとっては、苦痛を強いるものだと、翻訳家で有名な、あるアスペルガー症候群の女性は言っています。私もテスト勉強をするときなどは、一つの教科を終わらせてから、別の教科を勉強していました。私たちが当たり前だと思っている時間割も、もしかすると、この翻訳家の女性の言うように、一つの教科を区切りのいいところまで終わらせてから、次の教科を学ぶといった時間割のほうが向いている人が多いかもしれません。
このように、さまざまな立場の人たちの視点から、もう一度社会をみてみると、今までとは全く違ったものがたくさんみえてきます。自閉症の人たちに限らず、自分とは異なる立場の人たちの意見に耳を傾け、その人たちの立場から社会をみつめてみると、新たな発見や示唆が得られるかもしれません。
投稿者 伊藤恵子 : 2009年07月27日 16:45
